いきなりタイトルから
ちょっと重い感じでごめんなさい。
とはいえ、
やはり私の過去の状況を知っていただくことが
とても大事だと思ったので、
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今回は、
私自身のキャリアと病気と更年期についてお話しさせてください。
■【小学5年生】父の病気
私、ゆーきは神奈川県横浜市生まれ。
子供の頃から身体を動かすことが大好きで
学校の運動場を端から端まで走り回っている
そんな女の子でした。
小学校5年生の時に
父が心筋梗塞で倒れ、
祖母がガンで同時期に2人とも入院・そしてオペ。
祖母は帰らぬ人になりました。
病気になった父はジョギングと食事制限で
ウェイトダウンに成功。仕事にも復帰できるようになりました。
小学校5年生、11歳という幼な心にも
・病気は怖いな
・健康ッて大事だな
・運動って凄い効果があるんだ
こんなことを思っていました。
そして、
この経験から将来は運動をとおして
人々を健康にできる仕事についきたいとぼんやり思うようになっていきました。
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バトミントンは中学3位
小学生の頃は町内の強豪ドッチボール部に所属。
当時は川崎市に住んでいたのですが
その頃の地域大会ではいつも優勝していました。
中学に進学した時に
部活動は吹奏楽か運動系か悩んだのですが、
たまたま進学した中学校が
バドミントンの強豪校だったため
バドミントン部に入部。
全国3位。
後から思うと
運動系の大会ではこれが最高の順位だったので
もっとこの順位を味わっておけば良かったです(笑)
体育大学へ進学後、企業に就職
大学は東京女子体育大学へ。
とにかく身体を動かしている時が
一番自分らしくいられるという自覚がありました。
入学当初は、体育の教師になりたくて体育大に入学したのですが、
教育者になる前に「社会を知っておきたい!」という気持ちが芽生え、
就職活動を経て
オフィス家具メーカーに営業職として就職。
これがなかなかの激務で、
体育会系の私の身体を持ってしてもかなり仕事がきつかったので、
28歳で退職。
会社員と並行してスポーツクラブの指導員に
その後、会社は変わったものの
会社員として仕事をする一方、
インストラクターとしての仕事を並行して
行うことになりました。
イントラと会社員の2足のワラジ
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元々、身体の指導員になることが夢で、
その手始めに選んだのが当時スポーツクラブで流行していた
エアロビクスの指導員でした。
エアロビでグループレッスンしていくうちに
1人1人にお悩みに入り込んだ指導をしていきたいという気持ちが芽生え、
この頃から
パーソナルトレーナーの学びをスタートさせました。
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ちょっと遅めの結婚(36歳)
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36歳でちょっと遅めの結婚をし(今の時代ではふつう?)
結婚後、子供がいなかった時期に
「パーソナルトレーナー(PT)の道に邁進する!」
ことを決め、
ゴールドジムのオフィシャルパーソナルトレーナーを目指しました。
ゴールドジムのパーソナルトレーナーの試験は難しいことで有名だったのですが
運よく、認定試験にはすぐに合格。
すぐにパーソナル指導を行う日々が続きました。
トレーニングしたい人がドンドン増えて、
この頃のレッスンは月に100レッスンほど、
筋トレと食事指導をメインにその人に合ったレッスンを提案させていただいていました。
でもこれも
ものすごい数のレッスをこなしていたので
今思うと
自分のことながらすごい数のレッスンをこなしていたと
わがことながら驚いています。(笑)
妊活と癌治療を同時に(涙)
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なかなか子供が授からず、
婦人科を受診したら
子宮頸がんが発覚。
自分でも本当にびっくりの状況になってしまいました(涙)
まずは子づくりよりも
がん治療を優先!となり、
がん治療と不妊治療を同時に行うという
W治療。
(なんのこっちゃのW治療ですよね・・)
卵管促通治療を受けたり
岩盤浴に通い、
それこそ体から「毒出し」をしたことで
めでたく妊娠したのです。
41歳で「ハイリスク妊婦」からの「極小低体重児」の出産
やっと子供をさすがって喜んでいたのも束の間、
し胎盤の位置が異常に低いハイリスク妊婦となり、
仕事を引退。
出血、切迫、入院を繰り返し
二ヶ月早く早産、緊急帝王切開で
41歳の時に極小低体重の娘を出産。
妊娠中は絶対安静の日々だったので
四十肩になり、
身体が思い通りに動かないことの辛さを実感。
同時に帝王切開で腹筋を切ったので
ベッドから起き上がれない自分に愕然として
泣いた、泣いた、泣いた・・
ママのためのプログラムを制覇
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幼い頃から「身体にだけは自信があった!」
そんな私ですが
出産後に出の悪いオッパイを絞りに絞り
病院に毎日届けるのに
首も痛いし肩も硬いしで母親の身体や動作が及ぼす身体への
悪影響をイヤというほど実感。
この頃までに妊娠期の運動療法として
・マタニティビクス
・産後ママのダイエットになるアフタービクス
・リラクセーションプログラムの
・マタニティボディ&マインドというストレッチと呼吸
・赤ちゃんとママのベビービクス
・更年期改善のメノポーズケア
という女性のライフステージの変化に伴い
心身に必要なプログラムを学び
スキルアップを果たしていきました。
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42歳で「癌のオペ」
産後に検査を受けたら進行している事がわかり、
娘が1歳を過ぎるのを待って2泊3日で円錐切除術を
受けることになる。
47 際から更年期障害のオンパレード
娘が年長の冬に肘を複雑骨折で手術。
それがキッカケか?私が自分の責任と責めて
心身のバランスを崩して更年期症状が強くでるようになり、
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・頭痛
・目まい
・頭重感
・食欲不振
・強い不安感
・動悸息切れ
・血圧上昇
・睡眠障害
などなど
体調不良のオンパレード状態。
・
まさか自分がこんな状態になるなんて
想像も付かなかった現状を受け入れられなかった時期が続きました。
なかなか改善しない症状に家の中にずっと引きこもり、
「家の中だけで家族の世話だけをして終わる人生なんだ」と
本気の本気で思っていた時期もありました。
もちろん指導の現場に戻るなんて
ありえない状態に。
48 歳タイ・バンコクへ引っ越し
更年期の目まいグルグルの中、主人の仕事で引っ越しが決まり
タイに同行。
タイの気候が心を緩めてくれたのか?
少しずつ笑えるようになったり、
不安感がおさまってくるようになり、
ZUMBAのレッスンへ。
理由はわからないけれどZUMBAは
絶対にやりたくないものの1つだったし
やらない!と決めていたけれど
そこでタイ人の先生と奇跡の出会いがあり
なぜかZUMBA一色の
バンコクライフに。
指導者の資格を取ったり
その先生がでるイベントに付いて回り
バックで踊ったり、発表会にでたり、
今までとは違う世界を味わえるようになったのです。
52歳、未破裂脳動脈瘤が発覚
51歳で帰国。
体調もまだ完全というわけではなかったこともあったのか?
超ストレスを感じながらの日々を送る中、
頭痛がおさまらずMRIを摂ったら
またまたまさかまさかの未破裂脳動脈瘤。
なんでこんなに病気のオンパレードなんだろう?
と自分でも本当に
恐ろしくて恐ろしくて消えてしまいたかった。
それでも手術のやり方として
主治医の先生がカテーテル得意という事もあり、開頭はせずに
済んだのは本当に感謝感謝。
12月にオペ、2月にはレッスンに復帰することに。
初めてのウツ
自分でも
鬱になる人の気が知れないと心底思っていたのに、
自分を攻めに攻めまくり
病院にいったら抑鬱状態と言われ、
自分でもどうしたら良いかわからない状態に突入。
薬飲みながら毎日毎日映画を見まくって現実逃避して
脳の使う場所を変えて忘れるようにしてました。
私の仕事の方は
コロナ時代になったこともあり、レッスンはすべてオンラインに。
今思えば、そういう意味ではコロナに感謝です。
そこから、今までの私の不調は
全て原因は私自身じゃない???
そして、それは自己デトックス。
つまり「毒出し」をすることで
未然に防げていたことを自覚。
今は、自分の身体と
受講生様のレッスンでの臨床を増やしながら
レッスンを続けています。
私のような毒が身体に溜まることでの
不調に悩まされる人のお役に立ちたい!
人生はまだまだこれから。
50歳超えて輝ける私になる!!
これからもたくさんの「毒出し情報」をお届けしていきます。
一緒い毒出ししていきましょうね!
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